田中さんの教室
四月の月曜日、第二時限目の算数の授業が始まって五分ほど経った頃、教室の後ろの引き戸ががらりと開いた。
担任の山田先生が振り返ると、見知らぬおじいさんが、まるでいつもこの教室に通っているかのように、にこにこしながら入ってきた。色のあせた茶色のジャケット、片方だけ裏返しに履いた靴下、そして手には、しおれかけた菜の花を一輪。
「すみません、ちょっと遅れました」
そう言うと、おじいさんは一番後ろの空いている席にすとんと腰を下ろし、机の上で手をきちんと組んだ。
教室は水を打ったように静かになった——いや、正確には、二秒間だけ静かになった。次の瞬間、三十二人の三年生は、地球が割れたような騒ぎ方を始めた。
「先生!知らないおじいちゃんがいる!」 「え、転校生?」 「こんなに年取っているのに!?」 「やばい、めっちゃ笑顔!」
山田先生は冷静を装いながら、内心ではすでに警察と職員室の電話番号を交互に思い浮かべていた。
おじいさんは——後で分かったことだが、田中清一さん、88歳、近所のグループホームから散歩中にふらりと抜け出してしまったらしい——にこにこと黒板を眺めて、「ふむ、今日は二の段ですか」と呟いた。
実際は、三桁の引き算だった。
山田先生の電話を受け事務員が警察に連絡したところ、グループホームから疾走届が出ていることから、田中さんであることがわかり、家族が迎えに来ることになった。山田先生は迷ったが、田中さんは「私は算数が得意なんだよ。」ととても楽しそうなので、家族の方が迎えに来るまで教室で子ども達と一緒に過ごしてもらうことにした。。
そこから始まる2時間余りの時間は、後に「3年2組の歴史的事件」と呼ばれることになる。
算数の時間、田中さんはずっと指を折って、「37引く18は……37引く18は……」と困ったような顔で繰り返していた。隣の席のサトシくんが、しびれを切らして、「おじいちゃん、十九だよ」と小さな声で教えると、田中さんは目を丸くして、「賢い!君は将来、大臣になるな!」と叫んだ。サトシ君は算数が一番苦手な子だった。その日、初めて算数で褒められたサトシ君は、夕食のとき三回もそのことを家族に話した。
国語の時間、教科書の音読をしていたミナちゃんが「おじいさんは山へしばかりに……」と読み始めると、田中さんは突然立ち上がって、「私の祖父も、毎朝山に行きました!」と力強く宣言した。それから、戦争の話と、川で鮎を釣った話と、初恋の人の名前(ハナさん、らしい)が、三分の間に区別なく語られた。子どもたちはぽかんとしたが、なぜか、誰一人笑わなかった。
給食の時間、田中さんはカレーを「これは……ハイカラですなあ」と感激しながら食べ、ユウキ君のプリンに手を伸ばし、ぺろりと食べてしまった。ユウキ君は一瞬泣きそうになったが、田中さんがあまりに幸せそうに「あまい、あまい」と呟くので、「……まあ、いいや」と言って、そっと自分のみかんも差し出した。それを見たクラスメイトの何人かはそっとプリンやみかんを、田中さんに差し出した。
田中さんは、両手を合わせて、しみじみと言った。
「いやあ、戦後はじめてのご馳走です」
教室はまた、しんとなった。
事件は、掃除の時間に起きた。
田中さんが姿を消したのだ。
クラス全員で校内を捜した。サトシ君は「絶対、職員室に算数の問題聞きに行ったんだ!」と主張し、ミナちゃんは「いやハナさんを探しに行ったんじゃない?」と泣きそうになっていた。普段はおとなしいタクヤ君は、廊下を全力疾走して用務員さんにぶつかった。
田中さんが見つかったのは、体育館裏の桜の木の下だった。さっき持っていたしおれた菜の花を、しゃがみこんで、丁寧に土に埋めていた。
「ここなら、よく育つ」
山田先生が静かにしゃがんで、「田中さん、ここで何を植えてらっしゃるんですか」と尋ねると、田中さんはふっと顔を上げて、しばらく先生をじっと見つめてから、こう言った。
「……すみません。私、なぜここにいるんでしょうね」
それは、その日初めての、田中さんの「素」の声だった。
ちょっと困ったように、ちょっと申し訳なさそうに、でも、どこか恥ずかしそうな笑顔。
サトシ君が、田中さんの隣にすとんと座った。それから、ミナちゃんが、ユウキ君が、タクヤ君が、クラス全員が、ぐるりと田中さんを取り囲むように、桜の木の下に座った。
誰も、何も言わなかった。
ただ、春の風が、菜の花を埋めた小さな土を、優しく撫でていた。
サトシ君が、ぽつりと言った。
「おじいちゃん、ここにいていいよ」
ご家族が迎えに来たとき、田中さんは「では、また来ます」と上機嫌で帰っていった。「すみません、もう来ないと思います」と娘さんは小声で先生に謝ったが、子どもたちは、本気で「またね!」と手を振っていた。
その翌週から、3年2組では、月に一度、グループホームを訪問する活動が始まった。きっかけは、サトシ君が書いた一通の手紙だった。
田中さんへ。37引く18は、19でした。 今度は、もっとむずかしい問題、ようい(用意)して、まっているのできてください。 3年2組 サトシ
田中さんは、手紙を読んだ日も、その翌日も、手紙の内容を覚えていなかった。
けれど、子どもたちが訪ねてくると、いつも、いつも、同じ笑顔で同じことを言った。
「あら、君たち。遅れましたか?」
子どもたちは、声をそろえて答える。
「ううん。今日は、ぴったりだよ」
そして、体育館裏の桜の木の下では、次の春——
しおれかけた一輪の菜の花が埋められたあの場所に、誰が育てたとも知れぬ、小さな黄色い花が、静かに、確かに、咲いた。
子どもたちはそれを「タナカさん」と呼んだ。
田中さんは、もちろん、そのことを知らない。
知らないままで、いいのだと、子どもたちは思っている。